「ドイツ村」のシンボルタワーを砂でつくる

 昨年(2015年)11月、宮古島本島と長大な橋でつながる伊良部島の「渡口(とぐち)の浜」に於いて、現地の若い人たちに砂の城づくりを教えた経緯については、すでにレポートした。
 本年(2016年)4月、「日本のビーチNo.1」にも選ばれた、宮古島本島の「与那覇・前浜ビーチ」の海開きイベントに際し、会場の一角で、子どもたちに砂の城づくりを教えてくれないかという話が舞い込んできた。宮古島の夜の世界に暗躍する不良老人・知久が、島の観光協会などにわたりをつけ、実現にこぎつけたらしい。4月1日、笠井は築城7つ道具のうちから長・短の金尺、半球スプーンなどをバッグに潜ませ、早朝の寒さの中、羽田から出発したのだった。
 午前10時、宮古島空港には夏を思わせる陽光が降り注いでいた。空港まで迎えに来た知久が、「なんですか、その暑苦しい恰好は」と指さして笑う。セーターにパーカーを重ねた笠井の姿は、短パン・Tシャツで歩いている現地の人たちの中で、明らかに浮いている。急ぎ上の2枚を脱いで知久の車に乗り込んだ。
 宮古島の海開きは4月3日の日曜日、午前10時からだが、メインの砂城は、前日のうちにつくっておかなくてはならない。イベント当日は、築城ではなく、集まってきた子どもたちにつくり方を教えるのが主な仕事となるからだ。メインとなるその砂城は、宮古島の上野地区で営業している「うえのドイツ文化村」に建つ「マルクスブルグ城」に似せたものにしてもらえないかというリクエストがあった。というのは、その「ドイツ文化村」が、海開きイベントの有力な協賛企業であるかららしい。それはそれで面白いチャレンジなので快諾し、知久が送ってきた写真をもとに、大まかな完成予想図を用意した。とはいえ、やはり実物を見ておきたいので、まずは「ドイツ文化村」へと向かう。ドイツの古城を模したというものの、実態は観光ホテルとして使われている施設なので、それほどの重厚感はないが、外観はまずまず城郭風に整っている。ぐるりと一周しながら写真など撮り、事前のイメージとの相違点を確認した。

伊良部島の若き同志に応援を依頼

 翌4月2日は、午前9時に「前浜ビーチ」に出向いた。というのは、海開きイベント会場設営のため、パワーショベル(いわゆるユンボ)が砂浜に入って、ステージや仮設プールの基礎を造成することになっており、ついでに我々の砂の城にも、土台にする濡れた砂を運んでくれるという。さらに、知久が当地で親しくしている東京芸大彫刻科出身のアーティスト・北田匠さんが、築城予定地のすぐ隣に、ビッグスケールのサンドアート作品をつくることになり、そのための大量の砂も運んでもらえるということで、位置決めなどの打ち合わせをする必要があったからだ。
 知久の構想では、メインの城となる「マルクスブルグ城」とは別に、もうひとつ、自由な形の小さめの城もつくりたいということだった。パワーショベルの操作員はなかなか要領の良い人で、2つの砂山をスピーディに積み上げてくれたことから、10時には築城作業が始められる状態になった。しかし、笠井と知久の二人だけで大きな城を二つもつくることはできない。そこで、昨秋、伊良部島で技術を伝授した「アッチャン」こと福田敦史さんと、「カズユキさん」こと上原和幸さんに、手伝ってもらえないかとお願いしてあった。
 マリンスポーツのショップを経営するアッチャンは器用な人で、細部をきれいにつくる技を独自に編み出しているほど。カズユキさんは、伊良部島伝統の漁法である「アギヤー漁」の漁師だが、昨秋以来、砂の城づくりにすっかりハマってしまったという。ちなみにカズユキさんが仕事としている「アギヤー漁」は、何人かの漁師が海に潜って鳴子のような道具で音を立て、グルクンという小魚を大きな袋網に追い込むという漁法。後継者不足で消滅しそうなことを心配したカズユキさんは、勤務していた関西のIT企業を辞めて伊良部島に帰り、伝統の継承に努めているという。そんな人物が、砂の城づくりの楽しさを次の世代に伝えてくれるのなら、我々としても実に心強く、かつ喜ばしいことである。
 アッチャンの奥さんや、知久がネットで呼び集めた何人かも加わって、パワーショベルで盛り上げられた大きな砂山を踏み固め、いよいよ「砂のマルクスブルグ城」を削り出す作業が始まった。

純白で美しいが崩れやすい前浜の砂

 マルクスブルグ城の特徴は、細く高いタワーと、出窓を設けた急勾配の屋根にある。まず、タワーに取り掛かったが、上部のかたどりが、どうもうまくいかない。この浜の砂は、伊良部島「渡口の浜」の砂と比べて粘り気が足りないのだ。真っ白で美しいが、粒が大きめでサラサラしている。やむなく、低めで太い塔に変更した。タワーに付属する切妻屋根の礼拝堂はアッチャンに担当してもらったが、この起用が大正解で、きりっと美しい姿に出来あがった、その腕を見込んで、左横に立つ三角屋根の建物も任せることにした。
 さて、急こう配の屋根だが、削り取るか、盛り上げるかで、意見が分かれた。削り取るほうが容易だが、壁面が低くなって、プロポーションが本物の城と違ってくる。一方、盛り上げるのは根気の要るむずかしい作業となるうえに、砂がもろいため崩落する心配もある。大いに悩んだが、結局、削り取ろうということになった。今回は、胸壁づくりの技術に長けた幸山副会長やパタ先生のようなベテランメンバーがいないので、笠井としても、やり通す自信がなかったのだ。また、出窓も、盛り上げるのはむずかしいということから、同じく削り取ることにした。
 実は、本物のマルクスブルグ城には大階段がない。正面左手に小さな石段がちょこっと付いているだけなのだ。砂の城の見せ場は、やはり大階段なので、これはしっかりとつくり込むことにした。この作業は、言うまでもなく、「初代・階段マイスター」を自任する知久にやってもらう。
 主催者から差し入れ弁当があった昼食をはさんで、築城の作業は続けられた。2時過ぎには、どうにか形になってきたが、ここで大きなアクシデントが起きる。右側面に美しい形で立っていた円筒形のタワーが、突然、崩壊したのだ。砂がもろいため、乾燥と強風によって倒れたらしい。同じ形では明日までもたないだろうということになり、担当者のアッチャンが、小さな塔につくりなおした。このタワーもマルクスブルグ城の特徴のひとつだったので、残念なことではあった。

なんと、地元のテレビ局が生中継!

 3時少し前に、ようやく城は完成した。曲折はあったが、まずまず美しい姿にまとまっている。実際のマルクスブルグ城と違うところも多いが、わずか4人(しかも新人が2名!)でここまでつくったのだから、ほめられてもいいだろう。現に、できあがりつつある城を目にした地元の人から、「これ、ドイツ村のマルクスブルグ城だよね」と声をかけられたくらいなのだから。
 だが、これで終わりではない。すぐ隣にもうひとつの砂山がある。ここにも城をつくらなくてはならない。気を取り直して作業にかかったが、朝からの重労働で疲労がたまっており、遅々として進まない。3分の1くらいまでつくったところで、精根尽き果て、「残りは明日にしようじゃないか」ということになった。
その頃、隣接するスペースでは、巨大なサンドアートが姿を現しはじめていた。アーティストの北田さんは、当初、数メートルの高さがある尖塔の林立を構想していたのだが、この浜の砂の質のこともあり、とても無理だと判断し、いくつものピラミッドを密集させるプランに切り替えた。これが大成功で、非常にインパクトのある造形となった。

 北田さんのチームは、まだ作業を続けていたが、我々のほうは、「ホテルに帰ってビールでも飲むか」と、撤収の準備を進めていた。
 ところが、ここでもうひとつのハプニングがあった。地元のテレビ局が「明日は宮古島の海開き」ということで、なんと、夕方6時からの生中継番組を企画し、その中で、我々の砂の城も取り上げてくれることになったのだ。しかも、その担当アナウンサーの女性が、偶然にも知久の知り合いだという。これ幸いと、おしゃべりは知久に一任することにした。こういうことが大好きな知久のことだから、得意顔でしゃべるは、しゃべるは…。ま、明日のイベントの良い宣伝になったのは間違いない。

何十人もの子供が楽しんだ城つくり

 4月3日。いよいよ海開きイベントの当日だ。8時30分に浜辺に出ると、大勢の人たちが集まっていた。主催者から挨拶があり、一斉に準備作業に入る。我々も、昨日、つくりかけた第二の城に取り掛かった。今回の作業がつらいのは、築城場所が波打ち際から遠いこと。海水や濡れた砂を運ぶのが重労働だ。砂山はかなり乾いているので、水をかけて湿らせていく。10時には正式に開始となるので、それまでに完成させるのが望ましい。
 だが、今日は笠井と知久の二人だけなので、なかなかはかどらない。7割方できたところで、時間となってしまった。そうなると、子どもたちに貸し出すバケツやカップ、金尺やスプーンなどの一式を、何組も揃えておく準備作業も必要になる。築城はここまでということになってしまった。
 マルクスブルグ城が目を引くのか、子どもたちが大勢集まってくる。「お城をつくってみないか?」と声をかけると、皆、興味しんしん。貸し出した道具を手に、嬉々として砂遊びを始めた。笠井と知久は、そんな子どもたちの間を回り歩きながら、「ここはこうするといいよ」「そのやり方だと崩れちゃうよ」などとアドバイス。なかなか形にできない子が多いものの、中に意外なほど上手にできる子もいて頼もしい。
 それを遠くから見ていた子ども連れのお母さんやお父さんが、「道具を借りるのにお金がいるんですか?」などと声をかけてくる。「無料ですよ」と答えると、「では貸してください」とうれしそう。10組ほど用意した道具は、たちまち出払ってしまった。
 いろいろな子を指導しているうちに、すごい女の子が現れた。小学校の3〜4年生と思われるが、ちょっと教えると、すぐにできてしまう。知久が階段づくりを2〜3段やって見せたところ、すぐに、ひとりで完成させてしまった。さらに、自発的にマルクスブルグ城を見に行って、出入口や窓、胸壁のつくり方などを観察し、教えもしないのにつくってしまうのだ。「この子は天才じゃないだろうか」と、二人で顔を見合わせた。
 こうして海開きのイベントは午後2時まで続き、何十人という子どもたちに砂の城づくりの楽しさを教えることができた。だが、濡れた砂を詰めた重いバケツを何十回と運んだため、疲労がはなはだしく、へたり込んで動けないほどだった。
 また、南国の強い日差しを浴び続けたため、皮膚は真っ赤に焼け、小さな水ぶくれまででき始めていた。「もはや、これまで」。散らばった道具の後片付けも早々に、二人は冷たいシャワーを浴びるべく、ホテルへと引き上げた。


▲大勢の子どもたちが城づくりに挑戦。

 


▲海開き会場の中央部分。

 

 その後、夜の7時から、市中の大きなレストランで、海開きイベント全体の打ち上げ慰労会が開かれた。大勢の子どもたちを楽しませた我々の城づくりも好評で、主催者からお褒めの言葉と大きな拍手をいただいた。そして、宮古島独特の習慣である「お通り」と呼ばれる一気飲みが数十回繰り返され、老いも若きも、アルコールの海に沈んでいったのだった。

 

砂の城16_4
▲青い海と來間大橋をバックにした砂のマルクスブルグ城。

 


▲隣接地につくられつつあるサンドアートのピラミッド群

        

 

Text:N.Kasai

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